坂東三十三観音巡礼第7回
坂東巡礼第7回。今日は茨城県下4ヶ寺を巡ります。巡礼も今回を入れてあと4回です。
横浜駅西口7:30出発 → 第23番観世音寺 → 第24番楽法寺→ 第25番大御堂→第26番清瀧寺→帰還 横浜 18:30です。
本日は参加者40名、7回目となると10名ぐらいは顔見知りになってきます。この巡礼日帰りツアーは毎回3回から4回に分けて組まれて、その中の都合の良い日時を選択する形式になっています。今回は男性お一人さまは4人、男性同士はどこでもそうでしょうが、初対面では全く話しが弾みません。今日の先達さんは、天台宗寺院の住職で、関西弁で地声の大きなおっちゃんでした。
第23番 佐白山 観世音寺(茨城県笠間市) 普門宗 創建 (伝)7世紀 開基 粒浦氏
普門宗とは、ものの本によると真言宗系在家密教とも書かれていますが、よく分かりません。寺の縁起では白雉3年(652年)創建とされていますが、盛衰の歴史を繰り返し、明治の廃仏毀釈で伽藍、仏像の多くが失われ、昭和5年に現在地に小さな本堂が建てられ、現在の寺号となったとされます。古くは勝福寺、正福寺という名を持っていました。
寺は笠間日動美術館の隣にあり、80段ほどの階段を上ったところに、社務所を兼ねた本堂がありますが、境内にはこのお堂しかなく、昔日の勢いは伺えません。ご本尊は鎌倉中期の作と言われる木造十一面千手観音座像(佐白観音)。高さ58cmのお像で、茨城県指定文化財。秘仏とされていますが、お参りする人には半扉にして 拝ませてくれます。京都の三十三間堂本尊の湛慶作(湛慶は運慶の子)とよく似ていて、慶派の作品ではないかと、先代住職が言っていたようですが、これほど小さな慶派の作品は見たことはありませんので、それはないと思いますが、顔の表情、手の作りも丁寧で県指定とは意外なほどの立派な像です。県指定にとどまるのは、 鎌倉時代というのがもの足りないせいなのでしょうか。
日本美術史家で仏像の専門家に言わせると、鎌倉以降は新しい作品で慶派の写実性など、際もののように評価する人が多いのです。せいぜい平安中期までが日本仏像の黄金期で、白鳳、奈良時代のマニアに比べると鎌倉以降の仏像マニアは劣勢です。 ちなみに奈良、叡山焼き討ちの後は、特に徳川家康の宗教政策後は仏教界は骨抜きになり、信仰心に富んだ仏師がいなくなり、秀逸の仏像が作られなくなったといいます。徳川の檀家制度で、どの国民もすべて菩提寺を持たされ、寺院経営は楽になって時の政権への反抗心も失せ酒色に溺れ堕落する僧侶ばかりになり、仏教美術は一気に衰えたされています。一方で、武家はそれまでの一揆や、僧兵による寺院勢力からの武力反抗から免れ、江戸時代以降、我が国の政教分離が整斉と行われた原因とされています。 戦国、安土桃山、江戸時代の仏像群を、多くの美術史家はほとんど評価しません。
先代住職時代は、この仏像の撮影もOKと聞いて、実は今日楽しみにしていたのですが、1年半前に先代が亡くなって、娘さんが後を継いでいます。 高野山で得度したばかりの新米ですと説明していましたが、代替わり後は本堂内撮影禁止の張り紙が掲示されていました。つぎの写真はネット上にあったものを拝借しました。
結局のところ、作者不詳ですが、小ぶりながら立派なお像です。先代住職は愛するあまり、また県指定にとどまる無念さもあって、参拝する方々には写真撮影も許し、もっと世の人にこの秀作を知ってほしい気持ちが強かったのかと想像しました。
次の写真は前立像と脇待像(脇侍は室町時代とのこと)です。
第24番 雨引山 楽法寺(茨城県桜川市) 真言宗豊山派 創建 (伝)6世紀 開基 (伝)法輪
山号は、旱魃時の雨乞に霊験あったとされて嵯峨天皇から下賜されたといいます。 本堂(観音堂)の妻に菊のご紋章が掲げられていましたので、時の朝廷からの加護があったのは史実なのでしょう。ご本尊は平安中期の木造観世音菩薩立像(国重文)ですが、特異な形相をしているとされていますが、残念ながら秘仏とされて拝観することができません。来年、ご開帳されると書かれていました。この本堂と、隣にある多宝塔は江戸中期以降の建物なのでしょうが、堂々として青空を背景に建っている姿はなかなか立派です。このお寺は地元では安産祈願でも有名で、本日も七五三参拝で賑わっていました。
観音堂回廊壁面にある浮き彫り。仏教説話を掘り出しているのでしょうが、説明もなく物語は分かりませんが、彩色が綺麗で見ていて楽しいものです。 楽法寺は花の寺(東国花の寺百ヶ寺の一つ)、北関東を代表する桜の名所で他に、ぼたん、ツツジ、あじさいが有名とのことです。
第25番 筑波山 大御堂 (茨城県つくば市) 真言宗豊山派 創建 8世紀 開基 徳一
がまの油で有名な筑波神社のすぐそばにあります。東京都文京区の護国寺別院。護国寺は徳川綱吉が、母 桂昌院の祈願により建立した寺院で、大御堂のお堂の扉にも徳川葵の家紋が掘られていました。 ご本尊は十一面千手観音ですが、扉の隙間からは足元ぐらいしか見えません。見たところ1mぐらいの立像でしょう。お堂の前で、参加者全員で読経をするのですが、終わって先達さんが大声で、なかの住職に声をかけていました。「ありがたくお参りさせて頂きました。これから筑波神社にお参りしてきます」 わざわざこの後の予定まで報告をして、相当親しいのだな、とその時は思ったのですが、その理由はすぐ後で分かります。
筑波神社は徒歩5分ほど、すこしきつい坂を登るとすぐです。先頭を歩く先達さんと、話していると、ご自身は天台宗寺院の住職だと。今日の参加者は歩く速度が遅くて、すぐ間があくなあ、と嘆いたり、無駄口を叩いていました。聞くと、父親は浄土宗僧侶、なぜか、本人は天台宗で得度し、比叡山は徒歩で本山まで登るとか。比叡山は800mの大して高くはない山だが、登るのは難儀なのだと。そうこうするうち、姿を現した筑波神社はまるで、お寺そのもので、私が、これは神仏習合の典型のような神社ですね、と思わず言ったら、我が意を得たりという表情で教えてくれました。江戸時代までは、筑波神社本堂が大御堂の本堂で、分離令で大御堂が追い払われて、現存の土地に建立したので、大御堂側からいわせれば、大御堂の方が上にあるべきもので、大御堂の前に筑波神社を参拝したと聞けば、途端に不機嫌になって口も聞いてくれないのだと言うことでした。先達さんの大御堂住職への優しい配慮なのでしょう。しかし、聞けば聞くほど、筑波神社の境内は寺院そのものです。山門も残っていて仁王像の代わりに日本武尊の像が安置されていて、これには思わず笑ってしまいました。
筑波山は東京から1時間ほど、最近のトレッキング・ブームで初心者クラスの山ガールや高齢者夫婦の手頃な登山対象で、参道周辺にはたくさんのトレッカーの姿が見られました。
第26番 南明山 清滝寺(茨城県土浦市) 真言宗豊山派 創建 (伝)8世紀 開基 不詳
この寺には現在住職は不在。 近隣の長老が交替でご朱印を書いておられて、これがえらく時間がかかります。お寺までに、駐車場から綺麗に色づいた柿畑を横目に数分歩き、その後100段を越える階段を上ったところに本堂があります。ご朱印に時間がかかるので、早く完了させようと添乗員の中年の男性が走る、走る。大きなショルダー一杯に納経帳が入っているのですから、見ているだけで大変そうです。 ここのご本尊は千手千眼観音ですが、本堂はだれも案内してはくれませんし、開扉されないのでお姿は見えません。失礼ながら、このお寺には指定文化財はなにもないので、さして不満は起こりません。
帰り道、大きな農家の門先で、その農家の果樹園で採れた大粒の柿を1個100円で販売していたので、お土産に買い求めました。この周辺は広い柿畑だらけで、懐かしい日本の原風景が楽しめました。
« 入間航空基地祭入場32万人! | トップページ | 放送大学講義「日本建築史概説」 »
「寺社仏閣巡り」カテゴリの記事
- 弘法大師 生誕1250年(2023.06.17)
- 大晦日恒例のお大師さん参り(2019.12.31)
- 川崎大師お護摩祈祷(2016.01.27)
- 秩父三十四観音巡礼を終えました(2014.08.06)
- 秩父観音巡礼第4回(2014.07.15)
コメント