昨年4月に開始した板東三十三観音巡礼もすでに第9回(全10回)で、残る5ヶ寺だけになりました。本日は、
横浜西口出発 → 第13番 浅草寺(東京都台東区) → 第28番 龍正院(千葉県成田市) → 第27番 円福寺(千葉県銚子市) → 横浜 帰還
の3ヶ寺の巡礼になります。
第13番 金龍山 浅草寺(東京都台東区) 聖観音宗 創建 (伝)7世紀 開基 (伝)土師中知
ご存じ、あまりにも有名な浅草の観音さまです。縁起によれば628年、地元の漁師 浜成、竹成兄弟が現在の墨田川(江戸浦)で、一体の聖観音菩薩像(約5.5cm)を拾い上げ、それを見た地元有力者 土師中知(はじのなかとも)が出家、礼拝し、寺の礎を築いたとされます。本尊の聖観音は絶対秘仏とされて公開されたことがなく観音堂厨子に納められていて、代わりに慈覚(8世紀~9世紀)が彫刻したという大柄な御前立像が立っています。この寺院は東京都内で最古の寺院とされ、徳川幕府から寺領500石を与えられ隆盛を極めました。ただし、境内の名だたる建築物は第二次世界大戦で焼失し、ほとんどすべて再建です。
本尊聖観音は川から現れたという不思議な伝承ですが、一説には、現在の埼玉県飯能市に安置されていた像が大水で流されたとする言い伝えもあるようです。信憑性ありそうですが、ただ7世紀のこの時代に山深いはずの飯能のあたりに観音信仰がすでにあったというのも信じがたい話ではありますね。
ともあれ、浅草の観音さまは、花の都の真ん中にあって隆盛を極め、毎年毎年3000万人の参詣者がある華やかな寺院となりました。

浅草寺へは横浜を早く出発したので、午前8時30分過ぎに到着、雷門でなく、二天門(境内奥の観音堂脇、浅草神社すぐそば)から参拝します。あいにくの曇り空、真冬の寒さで観光客の数もまださほどでなく、観音堂本陣まで入ることができ、お勤め(読経、礼拝)をしました。
浅草寺はもともと天台宗寺院でしたが、大戦後、単立の聖観音宗総本山となっています。二天門そばの浅草神社は別名 三社権現といい、ご本尊ゆかりの浜成、竹成兄弟、土師中知三人を神として祭った神社です。有名な浅草の三社祭りはこの神社のお祭りです。

第28番 滑河山 龍正院 (千葉県成田市) 天台宗 創建(伝)9世紀 開基 (伝)円仁
滑河城主 小田氏が、土地の老僧が川からすくい上げた観音像(1寸2分、約4cm)に帰依し、現在の本尊胎内に納められたのが伝承されています。ご本尊十一面観音は通称滑河観音といわれます。本尊観音像は大きな厨子のなかにある4mほどの高さだそうで、この日は厨子の扉が数cm開かれていましたが、観音堂回廊からは薄暗くてなにも拝見できず。観音さまの指から垂らし出された長い綱に触れるだけでありました。
この寺の仁王門は珍しい檜皮で、室町時代の建立、重要文化財の指定を受けています。

龍正院の後は、潮来の富士ホテルというところで松花堂風弁当で昼食休憩でした。名産の鯉の洗いも入ったものでしたが、先達さんや添乗員が到着前にバスのなかで「乞う、ご期待!」と囃しすぎたので、実物を前にして、かえってがっかりしました。この種の弁当の常で、冷たく、自慢の鯉も美味しくなく、単なる「鯉う、期待のみ・・・・」でした。さりとて、周囲には魅力的な飲食店はまったく発見できないところでは文句も言えません。
第27番 飯沼山 円福寺(千葉県銚子市) 真言宗 創建 (伝)9世紀 開基(伝)空海
ご本尊は別名飯沼観音と称される十一面観音像で面白いことに8世紀前半漁師が海でこのお像を網で掬い上げたものだとされています。後にこの地を訪れた空海が開眼供養をし、豪族の海上氏が寄進し、寺が大きくなったとしています。江戸時代にかけて広大な寺領を奢りましたが、第二次世界大戦で本堂客殿を残し焼失、昔の面影はありません。銚子はこの寺の門前町として栄えたそうで、たしかに往時は相当の大寺院を思わせる気宇壮大な作りの再建本堂があります。しかし、本日訪れた三寺院ともに水の辺にあり、寺伝の謂われの観音さまがすべてその水の辺から掬い出された、という共通した言い伝えは興味深い話です。十一面観音の安置されたところはすべて水にゆかりのある地であり、十一面観音は水を守護する仏さまではないかと書いたのは、かの白州 正子でしたが、それを実感することになったのは予想もしなかったことでした。おそらく、浅草寺の伝承があまりにも有名であり、その伝承を模した言い伝えも各地で、作り出されたことでしょう。


今年は午の年にあたり、馬は観音菩薩の眷属(けんぞく、家来)であったことに因み、秩父や板東の観音さまは12年に一度の総開帳が催されます。 干支の年が明けるのは、正確には節分ですが、本日の朱印帳には、記念の「午歳結縁」の印が押されていました。あな、ありがたや。