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肺がんのおそろしさ

義母が肺がんで亡くなりました。激しい咳と呼吸困難で内科開業医を訪ねたところ、総合病院での受診を強く勧められ、その足で緊急入院、総合病院で末期の肺がんと診断されて、ちょうど3週間で帰らぬ人となりました。私の知人にも数人の肺がん罹患者がいてその怖さを知っていますが、これほど急激に日に日に容態が悪くなって短期間で亡くなった例を知りません。

数年前に腰椎圧迫骨折で入院手術をしただけ、常用の服薬なしで、農業を家業として、畑仕事、農作物の店頭販売する元気な毎日を送っていただけにこの顛末は青天の霹靂でした。「がんの王様(悪王)」と称される肺がんの恐ろしさを実感します。義母は88歳、夫とは6年前に死別。

病状発症から逝去までの3週間を以下に記します。

入院初日    ここ数日激しく咳込み、倦怠感を訴えて食欲を失ったことを嫁が心配して勧めた近所の内科医受診。胸部レントゲン画像を見た医師から、総合病院緊急受診を強く指示されました。レントゲン、CT、血液検査、右肺貯留の胸水(1000CC)のうち200CCを排水、細胞診に回されます。高血圧、糖尿病が判明。即日入院。

5日目     医師からの要請で子供たちが、それぞれ夫妻で集合。担当医から病状、今後の治療方針の説明がありました。病状は

     ①右胸膜に1000CCの胸水があり、右肺が圧迫されている

     ②右肺中葉に35mm大の腫瘍

     ③胸水にはがん細胞が散らばっている、

診断はステージ4の肺腺がん。この肺がんは、非喫煙者の女性に多く、自覚症状は出にくい。がんの腫瘍は2、3年ほどの間で肥大、胸水はここ1か月ぐらいの期間で進んだものと思われる。肺がんの転移については未確認。
今後の治療は症状緩和がもっぱらとなり、高齢であること、進行状況を考慮して抗がん剤治療は勧められない。血液を採取して遺伝子検査を実施しており、イレッサ、タルセバなどの分子標的薬が投与できるか調べている。分子標的薬が投与できれば、腫瘍縮小による症状緩和を期待できる。

具体的な緩和治療は遺伝子検査結果待ちとなりました。この日、義母は呼吸が苦しく、コンコン咳がでる症状が顕著でした。

7日目   見舞いの親族のうち、夫を肺がんで亡くした方と、かみさんが話す。義母には病名を告知していないので、見送りがてら廊下での会話で、ざっとした話だが、発症時(66歳)咳がひどく、最初に受診した病院では肺炎の診断。肺炎治療では症状が改善せず、いくつかの病院を受診するが(国立がんセンターもふくまれる)、肺がんの診断がでず、最後の病院で肺がん、分子標的薬イレッサ投与を開始。イレッサは効果顕著で腫瘍が縮小、咳が治まった。結局2年延命したものの、骨転移し、最後は脳に転移し亡くなりました。享年69歳。

18日目  担当医の要請で子供たちが集合、遺伝子検査結果の説明。
   残念ながら、分子標的薬は適性がなく投与できないことが言い渡される。胸膜水の貯留が進み、右胸膜にすでに2000㏄を越えている。私の推測では、義母の肺活量は3000㏄に満たないであろうから、片一方の胸腔の容量は1500CC程度の筈。そこに大量に胸膜水がたまればすでに右肺は全く膨らみがなくなって機能しなくなっているのでしょう。

担当医の説明では、症状緩和でできる措置は限られていて、胸膜水を排水したのち、右胸膜を人為的に炎症を起こさせ、右肺を胸膜に癒着させ、隙間を小さくし胸膜水が溜まる量を減少させる緩和治療の同意を求められる。「胸膜癒着術」という。80~90%の成功率で一時的な発熱、肺炎、感染症を発症するリスクがある。 本日は土曜日だが、週明けに状態を見て実施することで同意しました。
  本人には、週明けに胸水を減らして呼吸を楽にする治療をしてもらうと話す。ただ、この頃まで食欲も衰えず、会話も活発でした。

しかし、この日の夜を境に容体が急変。呼吸器機能が低下、酸素の取入れが不安定となり脈拍が早くなり、心臓に負担がかかるようになる。モルヒネの点滴量を順次増加させざるをえなくなり、時折意識も低下する現象。 胸膜癒着術は取りやめ。

19日目   朝方容体は改善し安定するが、食欲はまったくなく、吐き気。

 正午ごろから急変。 病院の助言で、家族が集まる。酸素マスク装着、話しかけると時折は反応しうめき声ともつかぬ不明瞭な返事で会話が成立する。呼吸が荒く、極めて苦しげで、終日、喉が激しく上下する。 右胸膜の貯留のためか、背中右部分が腫れ上がっている。

かみさんがこの夜付き添い宿泊する。一睡もできず。

21日目  前夜から、付き添いを交替した長男から午前5時45分、危篤の電話で起こされる。すぐさま病院に駆けつけ立ち会うが、子供たちが全員そろった午前7時30分、脈拍、血圧、血中酸素濃度を示すモニターが鳴り続け、あっという間にフラット(ゼロ)を示して亡くなりました。

最期の日、明け方まで一貫して意識はなくなり、反応は示さず、呼吸は荒く、首を上下に動かしながら苦しげでした。

義母は煙草は一本も口にしたことがなく、受動喫煙もなかったので、肺がんの罹患はまったく青天の霹靂でした。自覚症状といえるもの、右肩肩甲骨あたりのしつこい凝りと痛みぐらい。痛みが我慢できなくなって受診したときすでに手の施しようがない肺がんとは、驚くばかり。 ほんの1か月前には、娘であるかみさんと箱根湯本温泉に行き、親子水入らずの小旅行で旺盛な食欲を見せていました。その直前、かみさんが友人と海外旅行を計画していたら、珍しく「行かないでくれ」と口にしたり、秋口の温泉旅行を提案したら、すぐに行きたいと希望したり、いわゆる虫の知らせがあったのかもしれませんね。

入院3週間であっけなく旅立つことになりましたが、苦しむ期間が短くですみ、それだけが唯一の救いだったと思います。 本人からは病名を質問されたり、いつまで入院しなければならないのか問い詰められることはありませんでした。   享年88歳。

                                                                            2016年6月22日